2022年7月30日

slug
2022-07-30
date
Jul 30, 2022
summary
評価について無限に考える
status
Published
tags
EM
type
Post
Property
 
最近、「評価」というものを無限に考えている。
それは、評価は「誰のためなのだろう」がテーマだ。
シンプルに言われるのは、ボーナスを渡すための指標であったり、昇給するためだったり、成長を促すためだったりする。
僕が考えたいのは、ちょっと別の方向で、たとえば、偉大な数学者は数々の証明をしてきたが、それが何の役に立つのかは、その後何百年経った後にわかったものも多い。
特に数学者は利益を追求しない。
利益を追求するのは別の人がやればいいとさえ考えていたようでもある。
これと照らし合わせると、評価をするときに、目先の何か良い行いをしたみたいなものを評価しても実は大したことではなく、もっと引いた目線で見るということの方が大事なのではないか。
というものだ。
とはいえ、目先の成果への評価も大事なのだが、そっちを追う人は多いし、なんだかあまりかっこいい感じもしていない。
評価のために成果を出す人もいる。
そういう話ではない。
評価されないようなことをしているが、実際はめちゃくちゃ評価しないといけないんじゃないか、という人や事にフォーカスできるような人間になりたいと思っているのだ。
もちろんこれは「予想」みたいなジャンルなので、確かなことはないのだが、いずれとてつもない利益を生むんじゃないかという成果に気がつけるような人間になりたい。
そして、そう思い続けることが、マネージャーであったり、評価者にとってはとてつもなく大事なんじゃないかと思うわけだ。
だから、「はい、今期はこれこれをやりましたね、はい、だからあなたの評価は B です。」みたいな話ではなく、もっと情熱的でもっと評価できる部分に焦点を当てたい。
そのためのフィードバックは、盛んに行われるべきで、これこそがフィードバックなんじゃないかと思っている。
人間が人間を評価するのは酷だ。
何を持って評価となすかもよくわからない。
でも、真摯にその人にとっていい感じな目標というものがあったとして、そこへ果敢にチャレンジをしているならもうそれは良い状態だし、良い「評価」を与えるべきだと思っている。
その次のタイミングで、爆発的な何かを生み出すかもしれないし、出さないかもしれないが、偉大な人たちの偉業は大抵序盤は評価されていない。
ここに着目してから、評価をするのはまだ遅くないと思っている。
とある会社にいた時の話だ。
僕は父親を壮絶な癌の闘病の末に亡くしたのだが、葬式の数日後に出社して、その後もあまり成果は出ず、窓の外をぼーっと眺めている日が多い期だった。
つまり会社から見たらポンコツだ。
でも僕にとっては生きるのに必死だった。
立ち直るのに必死だったのだ。
その会社はボーナスが社員全員で折半だった。
つまりみんな同じ額のボーナスが出るのだ。
儲からなかった時は出ないが、出る時は出る。
僕はその期はポンコツだったが、ボーナスがもらえた。
ここで僕はかなり救われたのだ。
その後、むちゃくちゃバリューが出るような働きをするのだが、仮にこのボーナスをもらった時にひどい評価をされていたら、やる気なんてでなかったであろう。
困っている、辛い時にボーナスがもらえた。
頑張ってますね、と言ってもらえた。
そういった体験を社員は忘れないものだ。
恩はきっちり恩で返そうと心から思えた。
今日はなんだか暑い夏の土曜日だが、ここからが本当の「評価への学び」だと思った。
 
コーヒーゼリーを喫茶店で食べたい。
 
短期的な評価と長期的な評価は分けた方がいいな。
 
やったことだけで評価をすると、やれそうでやれなかったことや、本当はやったほうがいいけど、あんまり評価にならない些細なことにフォーカスがいかないという問題もある。
やっていないことをリストアップすることも、評価とは別のベクトルでやっていく必要があると感じた。
短期的なわかりやすい KPI しか追い求めない、本当にやらなければならない本質的な仕事を発見する土壌が築けない問題。
目の前の評価ばかりに目が奪われると、新しいことが行われているときに、それを評価できない。
そもそも人から軽はずみに評価されるような、小さな、軽はずみな何かをやっているだけではダメで奇抜でギャグに近いことだが、実は本質的なものをやっていきたい。
関係性が築けていないアウェイな空間で何か活路を見出そうとする動きなどは、 KPI にはならないが特に評価したい対象だ。
恐怖を克服したチャレンジにこそ意味がある。
 
 

© Yoshiyuki Hisamatsu 2021 - 2022